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 俳句の壺エッセイ
 第4回 本当の稽古
(2021年5月掲載)

 
草深昌子(青草)
 
俳句は句会無しには成り立たない。句会で連衆に「これよし」と認めてもらえてこその一句だと信じている。どうやら私は、俳句が好きというより句会が好きらしい。

そんな句会は場があってこそ開かれるのだという当たり前に気付かされたのは去年のこと、コロナ禍にあって句会場が全く使用不可となったときである。以来一年数か月を、思いがけず「俳句の壺」という大いなる句会の場を得て、休むことなく句会を満喫させてもらっている。一つは錚々たる俳人仲間との句会。もう一つは私が選者として臨む句会である。

私が主宰する「青草」のリアル句会では、如何に俳句をよくしていこうかと、丁丁発止とやり合っているが、ネット句会では表情が見えない分、コメントに注意を払っている。いずれにしても、俳句の日々は絶えることなく続いている。

居乍らにして句会を楽しめるとは、思いもかけなかったことである。すっかり俳句の壺に嵌まっているが、実作がままならないのは何故だろうか。俳句を始めて以来、「犬も歩けば棒に当たる」式で、季語の現場に立つことに疑いはなかった。吟行と句会が一対のものという認識が習い性となっていたのである。だが、それが一転して、座の文学として直々に向き合う句座から、いきなり仮想空間での句座となってしまった。これはある種の文学の変質ではなかろうか、ならば行き詰まって当然 。吟行派、書斎派の別を問うものではないだろう。

吟行ではものの見方が現象の表層的なところで終わっていたのではないだろうか。一見取るに足らないようなトリビアリズムの句が、妙に心に温もりをもたらすものであったりする。「仮の世界があたかも真の世界の如く我らの頭の中に彷彿されてそれを我らが事実を写生するごとく写生し得る」という教えが身に沁みるようになった。 

片や、ネット句会に備えて一人吟行をしたところで、締切りという強制がなければ物にならない。顔が見えない、声が聞こえない等々欠点ばかりが思われる。人は新しいことに挑戦することには馴染みにくいものらしい。だが、そのうち慣れてくると、過去に積み重ねてきた吟行のあれこれが、想像力を刺激してくれることに楽しみを覚えはじめたのも事実である。嘱目と兼題、今更ながらこれが俳句であると再認識している。それやこれや、出合いがしらにあらずして、十全の構えでもって一句を仕上げるのは苦闘の連続である。

また、実作以上に考えさせられるのは選句である。吟行で暴風雨に出会った句会では、大方びしょ濡れの句が選ばれる。後で、参加されなかった人に選を受けると、すっかり乾いている。同じ日を共有する吟行に比べ、そもそも立ち位置の違うネット句会の方が選に於いて冷静かもしれない。だが俳句の出来不出来を別にして、同じ時空をさまようところに句会の醍醐味があることも否定できない。このあたりの匙加減がリアルとバーチャルでは微妙に違ってくる。

句会では披講によって見直される句があるが、沈黙のネット句会では韻律の是非が見落とされがちである。その弱点を補うべく、パソコンに向かって朗誦することにしている。幸い私の所属するネット句会には虚子に勝るとも劣らない炯眼の選者がいて、その選が全くぶれないのである。そのぶれのなさに、臍を噬むことも多いが、これは又何という幸せであろうか。

かにかくに、初学から学んできた様々を、この期に及んで考え直すことになったとは我ながらあきれたものであるが、この再考が、コロナ災禍の最大のメリットであった。そこで、「本当の稽古とは人の稽古を見ること」という名役者の言葉が思い出されて、俳句の壺の底に溜った人さまの俳句をじっくりと見る稽古に励んでいる。

人工知能の進歩によって判断、評価の精度が急速に向上している。囲碁や将棋において最善手を見つけるだけではなく、医療の世界でも画像診断の能力は熟達の医師以上だという。俳句や文学でも過去の名句や名文を読み込ませればAIに評価を委ねるぐらいは訳もないだろう。先年、AIの作った俳句と俳人の俳句を混合したものを、別の俳人が選句するという番組があったが、人間の勝ちであった。逆に人間の俳句をAIが選句するとどういうことになるのであろうか。その巧拙の評価は主観を排斥して正しいものになるといえるであろうか。選句は古来より悩ましいものと相場が決まっている、その悩ましさが俳句の味でもある。

人間に出来てコンピューターに出来ないものは何か、それは「忘れる」ということだと、外山滋比古はいう。忘れるということにおいて絶大なる能力を発揮する私は胸を張って喜んでいる。こんなミーハーの思い付きだが、AIがあらゆる分野で人間の能力を凌駕する時代になったからには、その力を俳句の内外に利用しても面白いのではなかろうか。俳句という既存の概念や確立された慣習などはぶち壊されるかもしれない、あるいは、かつての戦争において何の影響も受けなかったように悠然としたままかもしれない。AIがディープラーニングで切り拓いてくれるネットの行く末がますます楽しみになってきた。

腰折れの私が、インターネットという時代の波にゆらゆらさせていただけるのも、このネット句会のおかげである。生きているかぎりは俳句を愛し、俳句に愛されたいと願っている。先ずは「俳句の壺」の蓋を開けよう、さあ、本当の稽古の始まりである。



草深昌子
1943年大阪市生まれ。神奈川県厚木市在住。「青草」主宰、「晨」同人、俳人協会会員。句集に『青葡萄』、『邂逅』、『金剛』など。
過去のエッセイ集