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 俳句の壺エッセイ
 第11回 なくならない補助輪 ~私のインターネット句会小史とよもやま話~

(2021年12月掲載)

 
中田無麓
 
インターネット句会が世に出たのは、いつごろからだろうか?筆者の記憶では、おそらく2000年代の初めではなかったか?日本のインターネット元年と言われるのが1995年だから、10年も経たないうちの間だと考えると、ネット黎明期より、俳句とインターネットの親和性は高かったようだ。かく言う筆者も、2000年代前半には、インターネット句会に参加をしていた。と考えるとインターネット句会歴は、かれこれ20年に及ぶ。これは、結構古株と言えるだろう。

当時のインターネット句会は(そしてその系譜は今もって続いているが…)、掲示板形式のバリエーションであり、非常にシンプルであった。当時の企業のWebサイトが、企業広報を紙からデジタルディスプレイに置き換えただけだったように、インターネット句会も俳誌という紙媒体をデジタルに置換したに過ぎなかった。筆者の参加していたネット句会も、投稿した句を管理人兼選者が、選をして、講評をつけて返す。という、俳誌のアレンジだった。今となってはすでに曖昧になってしまったが、朧気ながらそのように記憶している。

物珍しさも手伝って参加してみたものの、筆者はそれほど長続きしなかった。一つには、会ったこともない人たちから構成される評価の妥当性に疑問を持ったこと。もう一つには、やはり縦書きを前提とする俳句表記ができなかったことだ。むしろ、後者の影響が色濃い。ただし、この縦書き、横書き論争は当時から盛んだった。しかし、当時ドッグイヤーと言われた、技術の進歩の速さをもってしても、この問題は解決できず、今に至っている。

こうして一旦はネット句会から足が遠のいた筆者だったが、所属する結社での取り組みが、もう一度、ネットに向かわせた。それは、結社の同人・誌友に関わらず、句数に制限なく、誰でも投句できるシステムであり、その講評・添削を任されることになったのである。ここでも、ある期間が経つと、問題が現れた。句数に制限がないことから、同一人物からの夥しい句数に対応せざるを得なくなったことと、それに付随しての講評者のモチベーションの低下である。このようにして、こういった形での結社インターネット句会は幕を下ろしたが、このような実験的な取り組みは決して無駄ではなかったと思う。

そして現在、インターネット句会は隆盛を極めていると言ってよいと思う。Googleで「インターネット句会」と検索すれば、368,000件もヒットする(2021年11月23日現在)。バリエーションも多様である。その陰には新型コロナの影響が大きいことは言うまでもない。リアルな句会そのものができなくなり、その間の代替手段として、インターネット句会を設ける結社も数多い。

現在のインターネット句会の方向性は大きく3つに分けられると思う。

1.俳誌のデジタルメディア化:もちろん、リアルな紙媒体は存続させながら、デジタルな発表の場を新たに設けるケースがこれに当たる。投句に選をして、講評とともに、画面上で返すという、トラディショナルなやり方だ。

2.ある一定のメンバーによる、相互研鑽型のインフォーマルグループによる運営:これには、デジタル上のインターネット俳句システムがその広がりに大きく貢献している。

3.Zoomなど、Web会議システムを使った、オンライン形式の句会:最もリアル句会に近く、音声や表情によるコミュニケーションも、対面には及ばないが期待できる。

というように、盛んではあるが、これは、新型コロナ禍だけの徒花にすぎないのだろうか? 筆者はそうは思わない。もちろん、リアル句会の代替手段として、一人で自転車に乗れるまでの補助輪としての機能に始まったものではあるが、これからを考えると、地方在住や子育て期間中の親など、従来ならリアル句会への参加が難しかった方々に門戸が開かれた。この功績は非常に大きい。補助輪は、決して外されることなく残り続けるだろう。おそらくポストコロナ時代になっても、リモートワークがなくならないように…。

それにしても、縦書きでうまく表示できるシステムはできないのだろうか?日本語の文字は縦書きが基本にできている。その文化の火は、デジタルだからと言って、決して絶やしてはならない。



中田無麓
1957年大阪府守口市生まれ。兵庫県川西市在住。1999年東京に本部を置く結社に参加。2001年以来同人。俳人協会関西支部幹事。
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